2007.07.31
仮称S-Houseの打ち合わせのために、関西出張に行って来ました。



それにしても、このプロジェクトも昨年の9月に始まったわけだから、あと一ヶ月で一年ということになります。早いものだ・・。建設予定地の緑もすっかり濃くなっていました。

打ち合わせは主に工務店から出ている工事費見積りについて。

これらを希望額の範囲に収めるために建物の仕様を最終的にどのようなものにするか?と言ったあたりの細かい調整を行いました。幸い、既に見積り額はSさんの希望される額にかなり近くなっているので、大きな問題もなく終了しました。これが希望額とかけ離れていると、かなりツライ打ち合わせになるのですが。



ついでに内装などの細かい部分についても打ち合わせを始めました。上のスケッチは、居間の南側に光が入る様子を描いたものです。本当は今の段階でこう言った絵が室内の一通り描けているといいのですが、まだ手が回っていません。これからどんどん描いて行って、細かい打ち合わせを進めて行こうと考えています。

というわけで、お金の方はなんとかなりそう、打ち合わせも無事終わってホッと一息つきたいところなのですが、実は今までにない面倒な話にも見舞われています。法改正に伴う、建築確認制度変更の問題です。

これについては、是非日本の建築行政にひとこと言ってやりたい!と極めて多数の業界関係者が思っていることでしょう。実に非現実的な制度が導入され、業界は今大荒れに荒れています。私自身もこのような仕組みをもたらした国交省の役人を糾弾せずにはいられないのですが、これについては長くなるのでまた改めて。

なるべく早く着工出来るといいのですが・・。

2007.07.31
 2007.07.14
乃木坂のギャラリー間で開催中の展覧会「アルヴァロ・シザの建築」を見て来ました。本当に、ここのところの建築関係のイベントの充実ぶりには目を見張るものがあります。なんだか毎週遊んでいるように見えるかもしれませんが・・。



アルヴァロ・シザ。ポルトガルの建築家です。

かなり以前からこの世界では実力派として名高い人なのですが、玄人衆の高い評価の割には仕事の範囲がポルトガルやスペインからあまり出ず、建築スタイルも決してセンセーショナルではないので、一般での知名度は今ひとつ。建築界を揺るがした代表作、というのも挙げにくい人です。

しかしながら流行に全く影響されず、時間をかけて自分のスタイルを深化させていく仕事ぶりに対しては、一種賢者に対するような尊敬が寄せられています。



実を言うと、私自身はまだ一度もシザの建築を生で見た事はありません。

ヨーロッパへ建築行脚に行ったとしても、やはり古典のあるギリシャやローマ、コルビュジェを擁したパリ等を優先してしまい、なかなかポルトガルまでは手が回りません。

ただ、シザ設計の給水塔(上写真)にはかつてポスターを見てガーンとやられたことがあり、このポスターはここ5年ほど仕事場の正面に貼りっぱなしになっています。この給水塔は実に素晴らしい。シンプルで静謐な中に強い力学的な緊張感が秘められていて、その向こうには紺碧の空。この世界の持つ美しさのポテンシャルを示しているようにすら思えます。



そういうわけでシザは現役の建築家の中では最も気になる人間の一人なのですが、同時にシザは私にとって最も分からない、評価のしづらい建築家でもあります。

彼の建物は多くの場合白く仕上げられ、彫塑的な外観と詩的で清楚な内部空間で特徴づけられます。この彫塑的というのがおそらく最大のポイントで、積極的に評価すれば実にアーティスティックで自由であり、美しい結晶のような各部分が集合して建物が成立しています。これを反対に見ると、建物がなんらかの規範によって秩序づけられておらず、そこに客観的な面から建物のありかたを正当化する理由を見いだす事が出来ません。

このように主観的で自由なスタイルを尊重するか、客観的に判断の可能な規範あるスタイルを良しとするかは建築が永遠に持ち続ける二項対立の一つであり、おそらくどちらかに軍配の上がることはないのでしょう。しかし、一般的に言うと、展覧会や書籍と言った媒体で建物が判断される場合は平面図や立面図が建物の重要な顔となるため、規範型の建物の方が理解しやすい傾向はあると言えます。

また、建築家がなんらかの規範や秩序に縛られている場合、彼がなぜそのルールに身を委ねているのかを考察することで間接的に建物との対話を行う事が出来ます。建築家が何をしたくなかったのか。どういう理念が存在するべきと考えているのか。

個人的には、ルイス・カーンなどはそういう意味では規範がはっきりしており、対話のしやすい建築家だと考えています。また、前回取り上げたゲーリーについては、「規範を徹底的に破壊する(ただし明るく)」という一つの指針がはっきりしているために、これもまた別の角度から対話が可能なタイプの建築家であると言えます。



そして、シザについてはこのような読解の手がかりを写真や図面から読み取ることがかなり難しくなります。

勿論、光の効果や力学的緊張感の演出、人間の動きのコントロールという観点から設計のねらいをある程度推測することは出来ます。しかしその意図を確信するには彼の作る建物は奔放な曲線や直角でない部分が多すぎ、かと言ってそれを売り物とするにはあまりに清楚で、古典的な落ち着きをたたえているように見えます。

おそらく、彼は建物とは建物自身のみから読み取られるべきものと考えているのだろう・・というのが現時点での私の解釈ですが、これはまだ仮説に過ぎません。概して図面上に表れた規範は図面上だけのものであることが多く、逆に図面上の奔放さは実物では自然な顔立ちになって表れて来ることが多いものです。彼がごくごく自然に造形した空間が、図面と言う媒体を通した時に理解が難しくなっている可能性はありますし、そもそも図面という概念に我々が十分毒されているのかもしれません。ひとつだけ確信を持って言えるのは、彼が自分自身を正当化しなくてもモノを作り続けられる人なのだろう、ということです。

実際にポルトガルまで行った大学の先輩の話では、実際にみるシザは素晴らしいのだそうです。図面や写真からは窺うことの出来ないどんなメッセージを発しているのか、いつか必ず見に行こうと思っています。

2007.07.14
 2007.07.08
渋谷のBunkamuraで公開中の映画「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を見て来ました。昨年の「マイ・アーキテクト」といい、建築家を題材にした映画が一般向けに公開されるというのも建築に対する近年の世間の関心の高まりを示しているのかも知れません。



写真のように、フランク・ゲーリーはその奇抜なスタイルから毀誉褒貶の多い建築家ですが、個人的には手放しで絶賛するのも肩を怒らせて批判するのもちょっとズレているように感じています。あるものは良く、あるものは良くないという点では他の建築家と変わりはなく、ことさらにセンセーショナルなものだという意識を持って見る必要があるとは思いません。

私が実際に見たことのある建物はゲーリー自邸、カリフォルニア航空宇宙博物館、ディズニーコンサートホール、パリのアメリカン・センター、バーゼルのヴィトラ・デザイン・ミュージアム、それから神戸のフィッシュダンスの計6作品です。ビルバオのグッゲンハイムはさぞ面白いだろうと思っていますが、残念ながらまだ実物を見る機会に巡り会えていません。



個人的に思い出深いのはカリフォルニア航空宇宙博物館です。かつて飛行機少年だった私は大学生1年の夏にアメリカを一周して飛行機を見る旅に出たのですが、ロサンゼルスでたまたま足止めを食ったため、予定外だったこの建物を見に行きました。建物の正面からF-104が飛び出していて確かにインパクトはあったのですが、当時の私はまだ建築を勉強し始めるまえで、建物のことはあまり憶えていません。F-104のエンジンが抜いてあって、やっぱりエンジンは重いので抜いてあるのだなと思った事だけかろうじて憶えています。

その後建築の勉強を始めてから、この建物の写真に再会してびっくり。さらに建設前の模型写真を見る機会もあったのですが、模型にはF-109ではなくメッサーシュミットBf109がくっついていました。飛行機の種類はなんでも良かったみたいですね。



やはりロサンゼルスにあるゲーリー自邸については、事前に写真で何度も見て、おそらく素晴らしいだろうと想像して見に行きました。住宅なので当然中には入れませんでしたが、外をウロウロしてやはり直感に間違いがなかったことを実感しました。

その素晴らしさとアイディアについては長くなるので割愛せざるを得ませんが、既存の住宅とその構造を実に上手く利用した増築計画であり、普通の住宅の平凡さとその周囲に付加されたガラスやフェンスの奇抜さがお互いを高めあい、自由で楽しく明るい空間を作り上げています。意外なほど街に溶け込んでいたのも印象的でした。



逆にそれ意外のゲーリーの作品では、今のところあまり気に入ったものには出会えていません。写真のディズニーコンサートホールは基本的にホールという完結した機能がゼネコンの音響設計グループによって作られていて、ゲーリーはその上に奇矯なハリボテを作っているだけで、建物の機能と形とが意味のある関係を持っていないと感じました。むしろ本質的にはゼネコンの作った普通の建物だと思った記憶があります。

ヴィトラやアメリカン・センターはグニャグニャしていて一見不思議な形なのですが、基本的には建物であるという制約(雨仕舞い、構造、プランなど)から全く自由であるわけではなく、造形が自由であるだけに逆説的に建物であることを超越出来ていない部分を不自由に感じました。多少の変形を繰り返せばいつかただのビルになるというか・・。フンデルトワッサー(ウィーンのアーティスト)の集合住宅にも同様の印象を持った事があります。ガウディはちょっと違う。

その点、ビルバオ・グッゲンハイム(一番上の写真)は建物であることからかなりの自由を獲得することに成功しています。しかも不定形な要素の集積によって外部と内部の境目が曖昧な中を人々が巡り歩き、空中を渡り、造形の外に顔を出したかと思うと再び胎内に導かれる、そのような経路は美術館という建物の機能ともよく親和し、かつ他では絶対に得られない建築的体験を提供してくれるのだろうと想像しています。今後是非見に行きたい建物の一つですね。

映画の話からすっかり逸れてしまいましたが、実を言うと映画自体にはさほど強い印象はありませんでした。作品を写して、本人にインタビューして、関係者にインタビューして・・、というかなり当たり前の作りで、独立した映画作品というよりは全20巻の世界建築家ビデオ作品集の1巻分くらいの見応えでした。全く知らなかった新しい事実は、ゲーリーがユダヤ人だったということくらいで。しかしながら、ゲーリーが長い不遇時代に様々な葛藤や不安と闘っていた辺りの証言では少し心が動かされ、共感するものを感じました。ゲーリーとて、苦しんで自分の進むべき道を探したのだと。

これも余談になりますが、個人的にはゲーリーが流行から距離を置いている部分を高く評価しています。映画ではあまり触れられませんでしたが、10年程まえにデコンストラクティヴィズムというスタイルが流行ったことがありました。これは同名の哲学思潮を背景としていたのですが、建築的には難解なリクツをこねて建物をガチャガチャに作るというだけの単なる流行でしかありませんでした(少なくとも私はそう考えています)。ゲーリーは一時その流れの代表としてもてはやされていたことがあったのですが、彼本人は流行に乗ったり自分のスタイルをリクツで正当化することなく、ただやりたいからやっているだけだよというスタンスを持ち続けたようです。その態度には大いに見習うべき点があると感じています。

映画の公開は、Bunkamuraでは7/13(金)まで。興味のある方はお早めに。
http://sketch.cinemacafe.net/

2007.07.08
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